ローン

 私はこの大阪で講演をやるのは初めてであります。またこういう大勢の前に立つのも初めてであります。実は演説をやるつもりではない、むしろ講義をする気で来たのですが、講義と云うものはこんな多人数を相手にする性質のものでありません。これだけの聴衆全体に通るような声を出そうとすれば――第一出る訳がないけれども、万一出るにしても十五分ぐらいで壇を降りなければやりきれないだろうと思います。したがって、始めての事でもあるしこれほど御集りになった諸君の御厚意に対してもなるべく御満足の行くように、十分面白い講演をして帰りたいのは山々であるけれども、しかしあまり大勢お出になったから――と云って、けっしてつまらぬ演説をわざわざしようなどという悪意は毛頭無いのですけれども、まあなるべく短かく切上げる事にして、そうして――まだ後にも面白いのがだいぶありますから、その方で埋め合せをして、まず数でコナすようなことにしようと思う。実際この暑いのにこうお集まりになって竹の皮へ包んだ寿司(すし)のように押し合っていてはたまりますまい。また講演者の方でも周囲前後左右から出る人の息だけでも――ちょっとここへ立って御覧になればすぐ分りますが――実際容易なものではありません。実はこういうように原稿紙へノートが取ってありますから、時々これを見ながら進行すれば順序もよく整い遺漏(いろう)も少なく、大変都合が好いのですけれども、そんな手温(てぬる)い事をしていてはとても諸君がおとなしく聴いていて下さるまいと思うから、ところどころ――ではない大部分端折(はしょ)ってしまってやるつもりであります。しかしもしおとなしく聴いて下されば十分にやるかも知れない。やろうと思えばやれるのです。

 彼等にしてもし現実中に此行為を見出し得たるとき、彼等の憚りも彼等の恐れも一掃にして拭ひ去るを得べきである。況(〔いわ〕)んや彼等の軽蔑をや虚偽呼(〔よばわ〕)りをやである。余は近時潜航艇中に死せる佐久間艇長の遺書を読んで、此ヒロイツクなる文字の、我等と時を同(〔おなじ〕)くする日本の軍人によつて、器械的の社会の中に赫(〔かく〕)として一時に燃焼せられたるを喜ぶものである。自然派の諸君子に、此文字の、今日の日本に於て猶(〔なお〕)真個の生命あるを事実の上に於て証拠立て得たるを賀するものである。彼等の脳中よりヒロイツクを描く事の憚りと恐れとを取り去つて、随意に此方面に手を着けしむるの保証と安心とを与へ得たるを慶(けい)するものである。
 往時英国の潜航艇に同様不幸の事のあつた時、艇員は争つて死を免かれんとするの一念から、一所にかたまつて水明(みづあか)りの洩れる窓の下に折り重(〔かさな〕)つたまゝ死んでゐたといふ。本能の如何に義務心より強いかを証明するに足るべき有力な出来事である。本能の権威のみを説かんとする自然派の小説家はこゝに好個の材料を見出すであらう。さうして或る手腕家によつて、此一事実から傑出した文学を作り上げる事が出来るだらう。けれども現実はこれ丈である。其他は嘘(うそ)であると主張する自然派の作家は、一方に於て佐久間艇長と其部下の死と、艇長の遺書を見る必要がある。さうして重荷を担ふて遠きを行く獣類と撰(えら)ぶ所なき現代的の人間にも、亦(〔また〕)此種不可思議の行為があると云ふ事を知る必要がある。自然派の作物は狭い文壇の中(なか)にさへ通用すれば差支ないと云ふ自殺的態度を取らぬ限りは、彼等と雖(〔いえども〕)亦自然派のみに専領されてゐない広い世界を知らなければならない。